京都精華大学国際マンガ研究センター 第1回国際学術会議

世界のコミックスとコミックスの世界―グローバルなマンガ研究の可能性を開くために

<国際会議2009 発表要旨>

第1日目 2009年12月18日(金)

新世代ワークショップ

野田謙介
「日・仏・米マンガ理論の比較可能性について」

 『マンガの読み方』(夏目・竹熊他、日本、1995年)、『マンガのシステム』(グルンステン、フランス、1999年)、そして『マンガ学』(マクラウド、アメリカ、1993年)。マンガ理論の集大成ともいうべき書物が、90年代に日・仏・米それぞれの国で出版された。だが、はたしてこれらは同じ「マンガ」を対象にした本だったのだろうか。これらの著作を単純に比較対照することはできない。試金石としての作家(作品)がそれぞれの国で異なるからだ。たとえば日本においては手塚、フランスにおいてはエルジェ、アメリカにおいてはカービーやアイズナーなどが挙げられるだろう。しかしその一方で、これらの理論がより一般に開かれたものであろうとしたのも事実である。そうである以上、可能性はのこされている。しかしその比較可能性は、相互参照によって、実際になにが得られるのかを示すことでしか、つまり実践と成果によってでしか提示できないだろう。


ネラ・ノッパ
「グローバルな『マンガ研究』は一体何を対象とするのか?ファン・アート研究の視点から」

 現代のマンガ/コミックス研究において、物語的でない作品や印刷物に基づかない作品、さらに二次創作ものなどが周辺的問題と見なされてしまうと言っても過言ではない。このような作品を視野に入れずに「グローバルなマンガ研究」が果たして成り立つのだろうか。理論的枠組を丁寧に用意した上、異文化の表現をめぐる比較研究を行うためには、「マンガ/コミックス」とは何かについての定義も求められる。「マンガ/コミックス」の特徴をその視覚的表現形式に見出してよいかもしれないが、しかし、それを基準に「マンガ/コミックス」である作品とそうでない作品を区別してよいのだろうか。また、形式よりも内容を基準とする可能性もあるが、「マンガ/コミックス」にふさわしい物語とそうでない物語との区別は、恣意的な結論に至る危険性だけでなく、社会的に特権化されていない作者・読者層やそれが好むコミュニーケーションの仕方を無視してしまう危険性をも抱えているのである。


パトリック・W・ガルバレス
「『おたく』の社会的生態とマンガ研究の必然な関係について」

 本稿は戦後日本のコンテクストとそこから誕生した「おたく」についての考察である。おたくの中でも、マンガとアニメといったメディアと関係する物事を熱心に消費する人について注目したい。国際的コミック研究の可能性はこの発表会の主なテーマであるが、まずそのコンテクストであるメディアの発展の過程を探ってしかるべきではないかと主張したい。日本の場合では、戦後からマンガは安くて手に入れやすい子ども向けの媒体で、検閲の対象にならなかった。その結果、マンガは、主流社会から周辺化されたクリエーターが集まり、アブジェクト化されたトピックを表現する場になった。情報・消費の環境が整うとマンガやアニメをめぐる知識生産制度が設立し、おたくが誕生した。おたくによるおたくのためのメディアはその社会的生態を示すユニークな創造と消費のパターンを持つ。他国においても、創造・消費のパターンは消費者・創造者の社会的生態を示すはずである。どの国のコミック研究においても生産地の歴史と文化による創造と消費のパターンを検証することが重要である。


雑賀忠宏
「「マンガを描くということ」をマンガ家たちはいかに描いたのか:マンガ生産行為の真正性をめぐる言説としての「業界ものマンガ」」

 文化生産をめぐる社会的関係において、正当な象徴的・経済的報酬を得るにふさわしい生産行為であると承認されるための条件、すなわち文化生産行為の真正性の定義は、関係者にとって極めて重要な象徴闘争の争点となってきた。多くの場合、この条件は、結果としての作品の巧拙をめぐる技術的要素のみならず、生産行為にいかに携わるかという規範的要素をも含む。本報告では、行為としての「マンガを描くということ」の真正性を定義する規範的要素が、マンガの産業化や同人誌市場の拡大によるプロとアマチュアの境界の不分明化といった変化のなかで、マンガ生産行為に職業的に携わる人々によっていかなるものとして表象・定義されてきたのかを議論の俎上へと載せる。そして、この分析の中で、マンガ業界を舞台としたいわゆる「業界ものマンガ」をはじめとする、「マンガを描くこと」に関する自己言及的なマンガ作品を議論の対象とすることの可能性を検討する。


猪俣紀子
「フランスの少女向け媒体におけるBD」

 フランスでは19世紀後半より児童向けの出版物が発達してきた。この媒体はBDを掲載し長期間フランスの子供に親しまれていく。本発表ではフランスの少女向けの媒体に焦点をあて、日本の少女雑誌の分析等で用いられる方法を使用し、その構成内容の変化を追うことで、BDの変遷を考察する。具体的には、少女向けの新聞La semaine de Suzette、Fillette、Suzetteを年代ごとに分け検証する。このような分析方法はフランスの少女向けBD雑誌分析ではあまり行われてこなかった。なぜフランスでは行われなかったのか。この手法を用いることが適切なのか、少女マンガ、少女向けBD研究の今後について問題提起する。


鈴木繁
「SF研究からみたマンガ/コミックス研究:ジャンル、トランスメディア(トランス)ナショナリズム」

 文学、芸術学、社会学といった既に確立した旧来の学問分野に対して、学問研究分野としてのコミックス研究、あるいはマンガ学とは「初期段階」にあり、方法論やアプローチ、その語彙など(肯定的にも否定的にも)混乱と矛盾に満ちている。そのため、学問的な体系化が求められる領域であり、すでにそうした試みもある。しかしながら、そうしたコミックス/マンガ研究を独立したものとして立ち上げる際に、もう一度思い起こすべきは、マンガ/コミックスとは、絵と文字テクスト、空間的アレンジなど独自の属性を持つメディアであり、必然的に間領域・脱領域的な研究を必要とすることである。今回の発表では、日本の戦後に「確立した」SFジャンルを具体例としてとりあげ、そのジャンルやテーマ、そしてスタイルがマンガ研究とどのように交差するか、また社会的・歴史的なSFジャンルの成立諸条件が必然的に要請するマンガ/コミックス研究の可能性(と問題点)についていくつか提示したい。


基調講演

ティエリ・グルンステン
「グローバル化時代における、国際的マンガ研究への挑戦」

 グローバリゼーションの時代にあっても、それぞれの国や文化圏で、芸術作品の流通の仕方は同じではない。たくさんの海外作品を受け入れている国もあれば、自国の文化に閉じ込もっている国もある。私が住むフランスはと言えば、おそらく海外のマンガに触れる機会がもっとも多い国のひとつに数えられるだろう。というのも、市場自体が活力をもっているうえに、新刊点数の半数以上を外国マンガの翻訳が占めているからである。

 ところが、マンガの学術的研究のほうに目を転じてみると、かなりの制限を受けていると言わざるをえない。たとえば多くの日本マンガをフランス語の翻訳で読むことができるが、残念なことに、日本のマンガ研究者による日本マンガについての批評や理論が書かれた研究書は、ほとんど翻訳されていない。

 翻訳される量が少ないという問題にくわえて、マンガ研究の学術的交流に立ちふさがる他のさまざまな障害について、ここでは語っていこう。その例として、私自身の著作である『マンガのシステム』をとりあげる。というのも、この本はアメリカ、日本、そしてヨーロッパの二つの国で翻訳された数少ない例だからだ。用語の問題や方法論の違いが、まず初めの障害としてあげられる。さらには、それぞれの国で異なる学術研究の制度の違いが関係してくるだろう。つまり、研究者の地位や研究環境の違いである。そして参照する資料を決めることは、とりわけ重要な問題となる。なぜならば、その資料が典型的なサンプルとしてみなされるからであり、全ての「マンガ」について考えることを可能ならしめる拠り所として扱われるからだ。

 西洋と東洋の両方で通用するマンガの美学的、あるいは記号学的な理論を確立しようとすることは、われわれ全員にとっての新たな挑戦となるだろう。それは双方のあいだで学術的交流の機会を増やしていくことぬきには成し遂げられない。そしてそれは、共通する理論的枠組みに意義を見いだせるわれわれにしかできないだろう。

(野田謙介訳)

第2日目 2009年12月19日(土)

セッション1:少女マンガ、女性コミックス~ジェンダーとジャンルをめぐって

トリナ・ロビンス
「パツィ・ウォーカーからプリンセス・アイに至るまで:ガールズ・コミックスと少女マンガの普遍性を巡って」

 1950年アメリカでは、ニューズディーラー誌が少女の方が少年よりもコミックスを読んでいると報告した。しかし少女向けアメリカン・コミックスの黄金期は、1940年代から50年代にかけてのわずかな期間であった。1960年代には、少女向けコミックスは少年向けのスーパーヒーロー・コミックスに道を譲る。1995年にはDCコミックスに女性読者が占める割合はたった2%にまで落ち込んだ。しかし、日本のコミックスーマンガの流入と同時に、コミックスの女性読者の数は増え始める。それは女性読者と1950年代のアメリカン・コミックスの関係の再来なのか。女性読者と1950年代のアメリカン・コミックス、そして現在のマンガの間に何らかの関係を見いだせるとすれば、それは何か。本発表は、1940年代アメリカの女性向けコミックスの黄金期から1960年代その衰退期までを分析しながら、マンガがどのように、そしてなぜアメリカの女性読者を惹きつけるのかについて考える。

(大城房美訳)

溝口彰子
「反映/投影論から生産的フォーラムとしてのジャンルへ:ヤオイ考察からの提言」

 日本における女性による女性のための、男性キャラクター同士の性愛を中心に描いたマンガとイラストつき小説群のジャンルを広義のヤオイとして、1970年代少女マンガの中の「美少年マンガ」を始祖とすれば、40年近い歴史を持つ。私は、ヤオイは誰かの現実を反映するものではなく、また単なる個人的ファンタジーの投影でもなく、さまざまな性指向の女性たちの欲望やファンタジーと政治的、社会的現実が衝突する闘技場から生まれる表象であり、そして生まれた表象は主体の現実に影響を持ちうる、という前提で考察を行ってきた。数十年にわたって女性たちの性的なサブカルチャーとして活発に機能し続けている希有な言説空間であるヤオイ。ボーイズラブ商業出版中心となって約15年の今日のヤオイ・ジャンルでは、同性愛支持的(homophile)な作品や、「受」キャラクターが性的主体であるという意味で、あるいは、物語が直接的に既存のジェンダー制度を問題化するという意味でフェミニスト的な作品が増えており、フェミニストかつクィアなフォーラムとしてのヤオイのさらなる生産性を理論化することは急務である。また近年ヤオイがYAOIあるいはBLとして世界中に普及し、トランスカルチュラルな愛好家の交流も増えている中、このフォーラムはグローバルなそれと接続している。本報告は、ヤオイにとどまらず、「コミックス/マンガ」のジャンルを現在進行形の生産的なフォーラムとして理論化する行為の有効性について、国際的な「コミックス/マンガ」研究者との対話を始めるべく、投げかけるものである。


ウェンディ・ウォン/黄少儀
「モダンな女性の理想像 李惠珍の漫画『十三点』(十三點)を中心に」

 李惠珍の「十三點漫畫」は 1966年に登場するやいなや、香港コミックス界の伝説となり、作品、作者ともに香港では誰知らぬものもない存在となった。この漫画の主役は十三点嬢という、アジアのどこか、名前はわからない都市に生きる若い女性である。都会的でおしゃれ、最新流行ファッションを愛する十三点嬢は、当時の読者、とくに女性読者が憧れ、理想化した、近代的で流行最先端を行く女性そのものである。本発表では、この極めて重要な女性キャラクターを、香港コミックスの展開という文脈に位置づけ、詳細に分析し、この漫画が、1970年代の社会における「理想」の近代女性像とどのように関係しているのかを明らかにする。登場以来数10年、十三点嬢伝説は今日も無敵である。作者李惠珍が、作品を再版、アップデートした新作を発表、この漫画に新しい生命を吹き込み、最近の若い世代の心をとらえ続けているからだ。40年にわたり活躍をつづける李惠珍は、香港コミックス史関係のほとんどの展覧会やイヴェントに招かれる傑出した存在である。本発表では、李惠珍は、香港コミックス界への女性たちの貢献を象徴する存在であると論じ、メディアの李惠珍への注目度についても概観する。

(吉原ゆかり訳)

伊藤公雄
「『男』が『少女マンガ』を読むということ」

 国際的なコミックス文化の交流のなかで、現在、日本の少女マンガが注目を集めつつある。その背景には、これまで、多くの国々で、少女を対象にしたポピュラーカルチャーの生産と消費がかならずしも十分に発達してこなかったということがあるだろう。ここには、文化消費、特に若い世代の文化消費における国際的なジェンダーバイアス構造があると思う。ところが興味深いことに、日本社会においては、1970年代以後、少女を対象にしたコミックス文化が急激に成長した。現在、日本は、世界経済フォーラムによるジェンダー・ギャップ指数で世界130カ国中98位というジェンダー・ギャップの大きい国である。その日本において、なぜ、1970年代、少女文化が急成長をとげたのか。少女像の描写やストーリーの展開などに目を向けつつ、少年マンガ以上に少女マンガに熱中した当時の若い男性の一人として、若者文化のなかでの少女マンガの位置について、個人的な体験を踏まえて考察してみたいと思う。


セッション2: グローバル化における越境とマンガ研究

パスカル・ルフェーブル
「われわれは家族!グローバルな規模でコミックスを研究すること」

 静的なイメージを用いて視覚的に物語ることには、世界中で長い伝統がある。しかし、印刷された視覚物語が、大規模な娯楽ビジネスとして発展を遂げたのは、19世紀後期になってからのことである。30年もたたないうちに、新聞に掲載された、フキダシ付きのアメリカ式コミックスは、地球上の様々な国で、変容を伴いながら受容されていった。現代のコミックスが、歴史的にも、地域的にも、途方もないほどヴァラエティに富んでいるようにみえるにもかかわらず、これらのコミックスはまた、際だった類似性をも有している。それは、制度面のみならず、基本的な形式面(イメージのシクェンス、フキダシを取り込んだ絵、数少ないコマを用いたギャグコミックの厳格な形式など)においても、そして内容面(ジャンル、キャラクターのタイプ)においてさえ同様である。

 しかしながら、ファンはたいてい彼らのお気に入りのタイプのコミックスが独自のものであることを信じる傾向があり、それは結果として、他のタイプのコミックスを拒絶することにもなる。そのうえ、二次文献の大半は、取り上げるコミックスの選択がきわめて偏っている。ファンにも批評家にも同様に見られるこれらの傾向は、不可避的に、グローバルな領域で生産されるコミックスに対する偏った見方を助長する。翻訳が増加し、コミックスが――紙媒体のみならずデジタルメディアを通じて――地球上を旅することがより容易になっているからこそ、研究者は、様々な国で生産される、多様なタイプの視覚物語を検討しなければならない。比較を通じて個別性のみならず、類似性を見出すことができるし、この作業を通して、コミックスというメディア全般についてのより均整の取れた考えを導き出すことができるであろう。

(杉本章吾訳)

夏目房之介
「マンガ、BD、コミックを語りあうための共通言語の試み」

 マンガ、BD、コミックと呼ばれる諸現象を、新聞、雑誌を通じた大衆社会の複製媒体と考えれば、明らかに世界史的な共通性を持つと思われる。メディアに規定された表現の形態、とくに多くのコマ及びページ構成による説話機能という点にも、それは見出される。したがって異なる文化、言語相互間で議論する場合、この諸現象の表現形態に見られる共通項を提起することにも意味があるだろう。私はマンガの表現のしくみの分析を、とりあえず「目に見える要素」としての「絵・言葉・コマ」という三項の相互関係から行おうと考えてきた。とりわけ重要なのは「コマ」やページ連続性の様々なレベルでの役割である。この三項の簡単な解説をもって共通言語を探る試みとして提起してみたい。


小田切博
「ガラパゴス島に棲む日本のマンガ言説」

 現在の日本は「出版されるマンガの90%以上が国産マンガ」という国内の他分野、国外の出版状況と比較してもほぼ類例のない鎖国状態にある。少数ながら翻訳される作品も文学やサブカルチャーとしての関心で語られ、「マンガ」として関心を持たれること自体がほとんどない。こうした国内状況に対して、特に2000年代以降、日本マンガは海外市場である程度の成功を収めており、国内では「鎖国」、海外では「グローバル化」と内外で極端な非対称関係にあるのが現在の日本マンガの状況である。現在の日本マンガは明治以降に欧米のそれをモデルにしてはじまったものだが、この極端な輸出超過状態の中でそうした起源そのものがほぼ忘れ去られている。作家レベルでは欧米、アジアを問わず国外の表現に対する関心は存在し続けており、そこにははっきりと影響関係も存在するのだが、1970年代以降、国内のマンガに関する言説(批評、研究)はむしろ海外の作品や状況を「無関係なもの」として疎外するような態度をとってきており、情報そのものがほとんど流通していない。今後はこうした状況について国内においては自覚を、国外に対しては理解を求めていかなければ国際的な議論自体が成立しないだろう。


第3日目 2009年12月20日(日)

セッション3:マンガと社会

トーマス・ベッカー
「感性のフィールドワーク:コミックスの社会的正統性をめぐって」

 芸術作品の社会学は、シンボルの諸形態に関する感性論的・美学的側面ではなく、生産に関わる機能的側面のみを分析するのが通例である。ピエール・ブルデューによる〈場(フィールド)〉の社会学は、諸表現の生産における個々人の革新的なシンボルの用法をもうまく理解できる分析手法として、社会学の中で主要な位置を占めている。言説分析とは異なり、〈場〉の社会学は各作品の間テクスト的・間メディア的な記号論のみならず、その作者たちのハビトゥスと、自律性と革新をめぐって織りなされるシンボルの諸形態に関する闘争とを調査するのである。それゆえ、革新はひとつの表現として単純に考えることはできず、特定の〈場〉を左右する社会状況の変革として理解されることになる。本報告では、ヨーロッパとアメリカのコミックス作者たちに関する〈場〉の分析事例を提示するとともに、同様の議論を日本にもあてはめることがはたして可能なのかという議論を提起するつもりである。国ごとの〈場〉の構造の差異に関する問いに加えて、コミックスの社会的正統性という論点を議論の俎上へと載せることとしたい。コミックスはいまだに非ー正統的な芸術なのだろうか? そして、今日の日本社会においてはどうなのだろうか?

(雑賀忠宏訳)

チェンジュ・リム
「生活の鏡、時代の産物 シンガポールとマレーシアにおけるコミックスと歴史の関係をめぐって」

 コミックス・スタディーズはテクスト分析(ストーリーやキャラクター設定など)に焦点をあてる傾向がある。しかしながら、作品は時代の文脈を無視して、あたかも真空地帯の中で読むことはできないし、読むべきではない。コミックスは私たちの生活の鏡であり、まさに時代の産物である。コミックス・スタディーズは、テクストの分析をコンテクスト(時代背景などの文脈)と併せて論じる必要がある。本発表はシンガポールおよびマレーシアの例を用いながら、歴史的アプローチの有効性を勧める。コミックスの読解に歴史感覚を応用することにより、現在の政治・社会に対して、とりわけグローバリゼーションおよび民主化の進歩が及ぼす衝撃に対して洞察をもたらすことができるからである。

(中垣恒太郎訳)

山中千恵
「マンガ体験をいかにとらえるか:台湾でのマンガ読者調査を事例として」

 これまで日本におけるマンガ研究は国内読者を想定して行われてきた。マンガ研究にかかわるすべての人々がマンガ読者である中で、「マンガ体験」が論じられてきたといっても過言ではない。しかし現在、日本マンガ流通がグローバルに広がる中、こうした前提は失われつつある。本発表では、2008年に実施した台湾でのマンガ読者調査の事例を中心に調査方法を検討し、グローバルな状況下におけるマンガ体験の記述について考えてみたい。また同時に、いかに読者のメディア体験をとらえるかという問いが、日本マンガおよびマンガ研究にのみ突き付けられたものではなく、グローバル化を前提としたコミック研究における問題であることにも言及していきたい


セッション4:公的記憶、私的消費~『はだしのゲン』を出発点に

ケース・リッベンス
「戦場の彼方に位置づくコミックス その第2次世界大戦のトランスナショナルな描写をめぐって」

 第二次世界大戦は何よりも総力戦であった。戦争を行う国々の軍隊だけではなく、社会全体までも動員されてしまったほどの全面的紛争であった。この第二次世界大戦は戦後、戦争コミックスの舞台となっていたが、1970年代以降、コミックス表現の表象範囲が広まっていくにつれて、軍事的戦争ものとは異なる新たな戦争描写が登場した。第二次世界大戦の公的記憶とその表象において際立つようになった戦争犠牲者という視点がコミックスにおいても重視されてきたのである。例えば、制作者の国を超えて世界中の読者に人気を博している中沢啓治『はだしのゲン』やアート・スピーゲルマン『マウス』などがその代表に挙げられる。戦時中の暴力と迫害を描くことへのコミックスの影響、さらに読者の期待をみれば、グローバルな紛争であった第二次世界大戦を描くコミックス/マンガが、果たしてトランスナショナルな文化に属しているか、それともナショナルな物語づくりに止まるかという疑問が生まれる。つまり、第二次世界大戦の経験やそれに関する感情をコミックス/マンガにおいて描写するに当たって、ナショナルな枠組みがどれほどの重要性を持つかを追求する。第二次世界大戦の世界的なアイコンになっているアンネ・フランクは、様々な国のコミックスで描かれるが、その描写を具体例とする。

(竹内美帆訳)

トーマス・ラマール
「『チャイルド・ボム』:いかにして、マンガは子供時代に『原爆性』を付与するのか」

 原子爆弾の影響をもっとも子供の身体と直接的に結び付けたのは、大友克洋の『AKIRA』である。ただし、このような原子爆弾と子供の身体との結びつきは、それ以前の多くのマンガやアニメーションなどの物語のなかで作り上げられ、『AKIRA』まで綿々と受け継がれてきたものである。そのなかで原爆の衝撃は、子供時代、さらには、子供として現代の戦争や日本の歴史を経験することと深く関わってきた。中沢啓治の『はだしのゲン』は、この点において特筆に値する作品である。なぜなら、この作品は、原子力時代における戦争のポリティクスに対するヴィジョンを、子供の体験を通して語っているだけでなく、教育、娯楽、政治・経済的な事象に見出される戦後日本の変容と子供時代がいかにして相互作用的に関わっているのか、そして、その子供時代がいかなる特定の布置に従って編成されているのか、という点についても示唆を与えてくれるからである。それゆえ、われわれは、単に核戦争と戦後日本との関わりをいかに子供たちが経験したのか、という点だけでなく、戦後の世界秩序のなかでの日本の立ち位置を変えるものとして、子供時代の「原爆体験」をとらえ、『はだしのゲン』を考察する必要がある。『はだしのゲン』と手塚治虫の『鉄腕アトム』との――そして、同様に浦沢直樹の『PLUTO』におけるそのリメイクとの――深い結びつきを探ることは、この、子供時代を変容させると同時に、その子供時代が戦後日本の変容を促す際のひとつの契機となった、原爆体験を浮き彫りにする幇助となるであろう。さらに、様々なマンガを通してこのような原爆体験を読み解くことにより、われわれは、いかにしてマンガに特有の手法が、グローバルなメディアを通して視聴覚的な抵抗力を伴いながら爆発的に拡散する、「チャイルド・ボム」(child bomb)の生産物にとって不可欠なものであるのかを、明らかにしはじめることができるであろう。また、このような形でマンガをとらえることは、村上隆の提示する「リトルボーイ」への批判ともなるであろう。村上は、戦後日本のポピュラーカルチャーが(アメリカの)ミリタリズムの去勢化された、両面価値的な消費の賜物であるとし、それを「リトルボーイ」と名付けている。こうした議論は、マンガやアニメがグローバルに消費されるために、その日本性を強化するものとなっている。だが、「チャイルド・ボム」はそれ自身の主体性を持っているのである。

(杉本章吾訳)

川口隆行
「『はだしのゲン』と『原爆文学』 原爆体験の再記憶化をめぐって」

 60年代後半から70年代前半にかけて、マンガの隣接領域のひとつである文学で進行していたのは、「原爆文学」というジャンルの形成であった。『はだしのゲン』連載がはじまった1973年には、井伏鱒二の原爆小説『黒い雨』が高等学校国語教科書に初採用され、原爆文献史家であった長岡弘芳の記念碑的作品『原爆文学史』(風媒社)が出版されている。こうした事態と不可分であったのが、戦後日本社会の変容ともあいまった、原爆体験の捉えなおし、再記憶化という問題である。そもそも、原爆体験という暴力的出来事は、事後的に表象されることによって、それを受容する人々の「主体」形成に密接に関わってきたのであり、『はだしのゲン』もその圏域から自由ではない。本報告では、文学を中心とする同時代の原爆体験の表象との相関において、『はだしのゲン』の位相と意義を領域横断的に捉えなおしてみたい。


加治屋健司
「『はだしのゲン』の画家たち  イメージのパフォーマティヴィティを考える」

 本発表は、中沢啓治の『はだしのゲン』に登場する画家に注目して、本作において絵を描くということがもつ重要な意味を論じ、視覚的イメージのもつパフォーマティヴな機能について検討する。『はだしのゲン』は、主人公中岡元の父親が日本画家であり、重要なエピソードにおいて複数の画家が登場する。元自身も、最終的に画家を目指すところで物語が終わる。それらの場面において、視覚的イメージは、単なる現実の表象を超えて、何らかの行為を作動させる契機として導入されている。『はだしのゲン』が、描かれたコンスタティヴな内容に加えて、描くというパフォーマティヴな行為において、マンガの政治的な機能をいかに作動させたのかを、中沢のそれ以前のマンガや同時代の他のマンガ・絵画における原爆の表象を参照しながら、考察していく。最後に、マンガだけでなく絵画も含めた視覚的イメージのパフォーマティヴィティのあり方について論を進めたい。


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