みなさん、コロナ禍の2年目をがんばっていますか。
館長もコロナに負けないで、忘れられたマンガ遺産の発掘に精出しています。
さて、今回の「大マンガラクタ館」は、大正から昭和初期の、モダンガールを描いたアートが集合!
ほんとに100年前とは思えない、かっこいいガールアートばかりを集めてみました。
コロナも吹っ飛ばす「先を行ったガールたち」のクールな姿を、どうか楽しんでくださいますよう。
実は、この時代、女性画は大変身をとげます。
もう、静かに収まった気品ある奥様といった絵は飽きられ、自由で、スポーツ好きで、おしゃれ、そのうえ、とても親しみやすくてセンチメンタルな若い女性たちが、ぱっちりした目と、白い歯が見える笑顔を輝かせて、新聞や雑誌に登場したのです。
当時はどこの国も、こういう若いナイスガールの新しい暮らしぶりが絵やマンガのテーマになりました。現代の皆さんがみても、まぶしいくらいに魅力的な絵です。
第1次大戦のころは、欧州の若い兵隊が、このようなセクシーガールの絵を大事に戦地へ持って行き、テントの内壁に貼ったものでした。それで、ピンナップ・アートという別名もできました。
古い制約を破った勇敢なモダンガールたちですから、新文化のヒロインとして、日本でも愛好者が出てきます。しかし、昭和が戦時態勢に入るとすぐ、風紀を乱し教育にもよくないという理由で禁止され、戦争が終わるまで、消えてしまったのです。
でも、これらの作品をよく見てください。やがて日本に生まれる「少女マンガ」の芽がちゃんとあることもわかり、感動することでしょう。
大マンガクラタ館 館長 荒俣宏
George Barbier(ジョルジュ・バルビエ)
《FALBALAS et FANFRELUCHES(装飾と装身具)》
1922年 荒俣蔵
19世紀終わりごろ、パリにはミュージックホールやダンス劇場などが林立し、女性の歌や踊りを見て、若いパリジエンヌと恋を語る暮らしが流行りました。パリジエンヌは最先端のモダンガールでしたから、そこに才能ある画家や小説家が集まり、女性たちのファッションを楽しむ「お祭りのような毎日」を送りました。
そんな中に現われたガールアートの天才が、ジョルジュ・バルビエ(1882~1932)です。 ニジンスキーのダンス画や革新的なファッション画、そしてロマンティックな小説に美しい挿絵を描きました。特に「ポショワール」という色刷り版画で作られた女性像は、有名です。彼の描く女性は、アール・デコ美術のお手本となりました。 しかし、第1次大戦でパリが破壊され、バルビエに仕事を依頼する愛好家がいなくなってしまい、1932年に失意のうちに亡くなりました。
Enoch Bolles(エノック・ボールズ)
BASK ME ANOTHER(どこか別のところで私を暖めて)
『FILM FAN』Volume 72, No. 638
1942年 荒俣蔵
20世紀にはいって、パリのガールアートはアメリカに影響し、ミュージックホールの人気歌手や女優さんの愛らしい姿がポスターや雑誌グラビアになりました。ハリウッド映画の女優たちもパリのガールアートを参考にして、映画の場面に活用しました。マリリン・モンローのスカートが地下からの風にめくれあがる場面は、その1例です。ですから、アメリカで出された映画雑誌の表紙は、だいたいパリ風のガールアートに飾られていたのです。
しかし、やがてアメリカらしいガールアートが誕生します。その中で最も長く活躍したのが、エノック・ボールズ(1883~1976)です。
彼は、肌が健康的に輝くヤンキーガールたちを油絵で描きました。丸い顔に大きな目、そしてかわいらしく上を向いた鼻。ちょっとお茶目な隣のヤンキー娘みたいな、庶民的なセクシーガールのイメージを築き上げました。パリではダンサーや独身のキャリアガールといった自立した女性がアイドルでしたが、隣のおねえさん的な普通の女の子を賛美したのが、ボールズの特色です。 彼は、カレンダーの絵や映画雑誌のカバー画、そしてジッポー・ライターの装飾画で有名になり、1910年代から1950年代まで仕事を続けました。晩年は心の病気になり仕事をやめましたが、現在なお、ボールズの絵はアメリカ人に愛されています。
小野佐世男
初夏の空
『東京パック』1934年6月号
1934年 当館蔵
フランスやアメリカで花開いたガールアートは、大正期の日本にも大きく影響しました。ちょうど明治のマンガが政治風刺から風俗諷刺に移り変わり、大正期からはその主体がモボ(モダンボーイ)、モガ(モダンガール)を題材にした華やかなガールアートへと進化していきました。西欧の先端ファッションなどの刺激もありますが、大胆で自由な大人の女性が好まれたのは、日本の男性たちが西洋文化に知的なあこがれを持っていたせいでしょうか。
そんな時代に登場したマンガ家のなかでセクシーな女性を描けるナンバーワンと言われたのが、小野佐世男(1905~1954)でした。この人自体がおしゃれでハイカラな人でした。まるでアメリカ女性が日本に住んでいるみたいな、8頭身の女性が、日本の生活風景にまぎれこんでいる感じの絵を描きました。雑誌の表紙を飾ってじつによく目立つものです。小野が描いたセクシーガールは、バルビエやボールズのものよりずっと熟女ですから、当時、日本のマンガ読者層が中年紳士だったらしいことを推測できます。つまり、大人のマンガだったんですね。小野はユーモアセンスがあるうえに話好きで、たくさんのエッセイも残しています。
戦後も小野の人気はおとろえることなく、さらにいっそう、女性像に磨きがかかりました。昭和29年2月1日、来日するマリリン・モンローに取材し、彼女の絵を描く仕事のために、飛行場で彼女の到着を待っているとき、惜しいことですが急死しました。まだ48歳の若さでした。