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第3回 戦前の童画雑誌『カシコイ』の世界

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こんにちは、『大マンガラクタ館』に、ようこそ。
世の中に忘れられた漫画の先祖たちを掘りおこし、現代漫画のルーツをさぐる「大マンガラクタ館」。今回の出し物は、ほんとうに、恐竜レベルの大発見といえる宝ですよ!

マボロシの雑誌『カシコイ』と童画

今からおよそ90年前、戦前の数年間に出版されたまま埋もれてしまった童画雑誌に『カシコイ』という共通タイトルがついた学年雑誌がありました。講談社や小学館のような大手出版社が出した人気学習雑誌と違って、小さな出版社ががんばって、当時いちばん才能のあった童話と童画の作家、および漫画家を起用した、個性ある雑誌でした。その雑誌に使われた原画や編集資料がひとまとめで見つかったのです。奈良にお住いの行司(ぎょうじ)千絵さんという方が、昔おじいさまの藤本卯一(ういち)さんが編集されておられた出版物に関心をもたれたのが、発見のきっかけでした。おじいさまの従兄弟である北村宇之松(うのまつ)という方が創業した「精文館」で出版された『カシコイ一年小学生』と『カシコイ二年小学生』(昭和7=1932年創刊)です。この原画類が北村家と行司さんの手元に大切に保管されていたのです。
いわば学年雑誌の先祖のひとつですが、中身は今と大違いで、教科書風なところは少なく、当時有名だった童話作家の作品を、じつに美しい「童画」といっしょに載せた、子供の感性をはぐくむ絵本のように作られていました。それもそのはず、童謡顧問に北原白秋、童話顧問に浜田広介、童画顧問に初山滋、といった一流の先生方がチームを組んでいたのですから。漫画も、横山隆一や中島菊夫という人気画家が担当していました。そこで、この絵本みたいな学年誌を「童画雑誌」と呼びたいのです。

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子供の感性をはぐくんだ漫画

『カシコイ』の創刊は1932年11月。終刊時期は分かりませんが、今のところ1935年5月号まで確認できています。執筆者がすごい。童謡では北原白秋や巽聖歌(たつみせいか)(この先生たちの童謡は、みなさんが今も歌ってますよ)、童話では「泣いた赤おに」の最初のバージョンが掲載され、まだ無名だった新美南吉の「アメダマ」(今でも教科書に載っています!)の初出誌でもありました。
『カシコイ』両誌は、毎月発行され、懸賞の応募数を見ると5500名をこえる愛読者がいて、児童の作品を掲載するコーナーでは、北海道や東京、九州に加え、京城、台北などに住む子供たちの名前が見えます。戦前の子はこうした雑誌で感性や想像力を磨いたのでしょう。ここに展示したのは、発掘品の見本ですが、どうか90年前のすばらしい童画類を楽しんでください。

大マンガラクタ館 館長 荒俣 宏

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「精文館」について

精文館は1914年に東京・神田神保町で創業した出版社です。創業者の北村宇之松は奈良の出身です。大阪の出版社で修行後に上京、書籍の出版と取次販売を兼ねた精文館を立ち上げました。北村本人は経営を、また従兄弟の藤本卯一が編集を担当し、学習参考書や実用書のほか、『カシコイ一年小学生』『カシコイ二年小学生』を出版しました。

精文館は太平洋戦争後も、北村が亡くなる1965年まで学習参考書などの出版をつづけましたが、その歴史は今、忘れ去られています。しかし、このたび北村家とその親戚にあたる行司さんの尽力により、保存されていた童画の原画・原稿が調査され、はじめて光があてられました。このみなさまのお許しを得て、初めて公開することができました。
手塚治虫が登場するまで、子供の本や雑誌の花形といわれたのは、童画や漫画のタッチを生かした「挿絵」でした。当時人気があった描き手は、いま「絵本作家」として尊敬されていますが、じつは漫画の発展史をかんがえる上でも貴重な仕事を残しています。当マンガミュージアムの書庫を探したところ、『カシコイ』誌の現物をはじめ、漫画家として作品を寄せた中島菊夫の本や原画がたくさん保存されていました。この展示がきっかけになって、これからたくさんの発見が生まれることが期待されます。

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