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第6回「趣味の王さま」三田平凡寺、令和に復活す!?

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明治から昭和のはじめまで、「趣味」と言えば、その家元は三田・平凡寺(みた・へいぼんじ)だ、と言われるほどの達人がいました。当時は、現在と少し違って、人があまり関心を持たないものやゴミと思われているものに面白味を見つけだすことが流行っていました。何を選ぶかでその人の個性やセンスがわかるような見方こそが、趣味人の証だと言って、お弁当の包み紙、マッチのラベル、名刺やラブレター、道に落ちていた石までもが、趣味と収集のテーマになったのです。

平凡寺という人は、そうした「趣味」の仕掛人、“御本家”でした。この人自身は髑髏(どくろ)の収集で有名でしたが、それにとどまらず、「うん〇」にまで興味を持ち、大形のものを型に取って金(きん)で模型をつくったりもしました。戯画(いまのマンガ)も描けば川柳も詠み、海外から入ったばかりのローラースケートに飛びつき、二階をリンクに改造してガーガーすべったと言います。そうかと思えば、絵や文章を一流の師匠に学び、大の読書好きで洋書も独学で読破したらしく、国の内外から教えを受けにやってくる学者もたくさんいました。

平凡寺は大正時代に、「我楽他宗(がらくたしゅう)」という趣味人クラブをつくり、ガラクタ集めの輪を広げました。昭和・平成の「オタク」と同じ、社会現象にもなりました。もしかしたら令和の文化はいまだ「へいぼんじ」の輪の一部なのかもしれないのですが、平凡寺自身の興味の範囲は広すぎて、実は全貌がわかっていません。 そこでマンガミュージアムは、平凡寺の世界を探検することにしました。なにしろ、宝が出るか、ヘビが出るか、あるいはちょっとエッチなものが出るか……まったくわかりません。でも、「大マンガラクタ館」にはたいへんふさわしい出し物だと思いませんか?最初は、わかりやすいオバケの絵やおしゃれな絵葉書を中心にご覧に入れます。どうぞ、この「奇人」の“再発見”にお立会いください。

大マンガクラタ館 館長 荒俣宏

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耳が不自由だった平凡寺が、筆談のために使ったメモ用紙に自らを埋める写真

三田平凡寺(みた・へいぼんじ)

本名・林蔵。1876(明治9)年、材木商の長男として、東京に生まれる。
幼少時より健康に優れず、学校も休みがちであったが、14歳頃聴力を失う。正規の学問を受けることはなかったが、絵を小林清親(1847~1915。「最後の浮世絵師」と称される一方で、マンガ雑誌『團團珍聞(まるまるちんぶん)』などに諷刺画を数多く寄稿)に、都都逸を鶯亭金升(おうてい・きんしょう)(1868~1954。マンガ雑誌『團團珍聞』主筆の梅亭金鵞(ばいてい・きんが)の弟子)に、狂歌を野崎左文(さぶん)、狂詩を真木痴嚢(ちのう)に習うなどして、江戸の伝統的教養を存分に身に付ける。一方で、洋書を取り寄せ、海外の知識も仕入れていた。

珍奇なモノのコレクターとして知られていた平凡寺が、1919(大正8)年に仲間と共に始めたコレクター・趣味家集団「我楽多宗(がらくたしゅう)」は、京都を含めた地域支部まで作られ、大正期から昭和戦前期にかけて一世を風靡した。文芸者や学者、コレクターらによって構成される「我楽他宗」は、独特のネットワークを形成し、当時の知の「山脈」の一部を担ったと言われているが、その創始者である平凡寺についてはほとんど解明されていない。 1960(昭和35)年没。

夏目漱石の孫としても知られるマンガコラムニスト/マンガ研究者・夏目房之介の母方の祖父でもある。

【参考文献】
藤野滋『我楽他宗宗員列伝』近江郷土玩具研究会、2007年
山口昌男『内田魯庵山脈 「失われた日本人」発掘』晶文社(岩波書店)、2001(2010)年

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