《紙芝居》12月 実演者スケジュール
。・:*:・゚★,。・:*:・゚☆紙芝居・12月口演・:*:・゚★,。・:*:・゚☆
1 日(日) だんまる
2 日(月) らっきょむ
3 日(火) はるる
5 日(木) らっきょむ
6 日(金) らっきょむ
7 日(土) だんまる
8 日(日) はるる
9 日(月) だんまる
10日 (火) はるる
12 日(木) だんまる
13 日(金) らっきょむ
14 日(土) らっきょむ
15 日(日) はるる
16日 (月) だんまる
17日 (火) はるる
19 日(木) だんまる
20 日(金) はるる
21 日(土) はるる
22 日(日) らっきょむ
23 日(月) らっきょむ
24 日(火) だんまる
2 日(月) らっきょむ
3 日(火) はるる
5 日(木) らっきょむ
6 日(金) らっきょむ
7 日(土) だんまる
8 日(日) はるる
9 日(月) だんまる
10日 (火) はるる
12 日(木) だんまる
13 日(金) らっきょむ
14 日(土) らっきょむ
15 日(日) はるる
16日 (月) だんまる
17日 (火) はるる
19 日(木) だんまる
20 日(金) はるる
21 日(土) はるる
22 日(日) らっきょむ
23 日(月) らっきょむ
24 日(火) だんまる
11月25日。
京都国際マンガミュージアム開館18周年。
マンガミュージアム開館当時から、紙芝居を漫画の原点の1つという事で、紙芝居常設小屋をおかせていただいている。
それを強く推してくれた人、漫画家で漫画文化研究者、京都精華大学名誉教授、牧野圭一先生の後押しがあったからだ。
牧野圭一先生との出会いにより、日本人のみならず、海の向こうから集まる漫画心、子ども心溢れる人達と日々、紙芝居で向き合わせてもらっている。
それはまだ僕が紙芝居屋になる前の少しちょっとだいぶ前の昔話。
京都精華大学の学生さんからの紙芝居の学祭で紙芝居してほしいと紙芝居屋ヤッサンへの口演依頼電話。
口演日、時間、場所。そこまで伝えてから、もじもじしだす女学生。
ヤッサンは言う。
「なんだよ、なにが言いたいんだよ、言ってみろよ。」
もじもじ女学生が答える。
「あのぉ〜、その、お金があまりなくて、、、」
「いくらあるんだよ、言ってみろよ」
女学生が答えた数字は紙芝居屋ヤッサンが口演依頼受けるには0が一つ少ない数字。
「なんだよ!あるじゃねえかよ!
学生がそんなとこで遠慮してんじゃねえよ!」
父はその仕事を受けた。
僕はその話をすぐそばで聞いていた。
しょせん紙芝居。 たかが紙芝居。
その言葉に安く見られてしまう紙芝居。 父の紙芝居は見なきゃわからない。
僕は幼い頃からずっと見てきた。
他の紙芝居は知らないが、違うのだ。 小さな子どもだけじゃない。 高学年も中学生も高校生も大学生も大人もおじいちゃんおばあちゃんをも引き込み巻き込んでしまうんだ。
皆が持つ紙芝居の概念をひっくり返してしまう。 テレビ消して家族の茶の間囲むような、星空の下、大きな炎囲むような、木で出来たテレビの中の小さな絵に皆が肩寄せ合って笑い合うそれが父の紙芝居。
たくさんの笑顔と笑い顔をタクト代わりに拍子木もって奏でる紙芝居。 それが父の紙芝居。
なのに、見てもらえなければ、しょせんたかが紙芝居。
父はお金に無頓着。 またそんな仕事を受けてしまうんだ。 賢くなったつもりの片方の頭ではそう思う。
だけど、もう片方の頭で知っている。 父は“不可思議”の計算式をはじく。 意図せずに。
学祭当日、父の紙芝居はたくさんの学生とそこに来た子ども達、大人達を巻き込んだ。
それはいつも見てきた光景。
僕が誇らしく思う父の姿。
父が作る大きな輪。
紙芝居と聞いて、思い描く光景なんかではない。
笑顔の女学生が紙飛行機ひとつ作れそうな封筒を父に手渡す。
ありったけの笑顔とお礼の言葉を乗せて。
これだけの仕事をしてるのにな。 僕は思う。思ってしまう。
そりゃ、学祭は盛り上がったよ。 けど、我が家の茶の間は今日も白いご飯に夢だけ乗せる夢ご飯。 大好物だけど、たまにはさ。
そのたくさんのお客さんの中、一番後ろで見ていたのが、牧野圭一先生だった。
紙芝居終え、たくさんの人達に水あめ配り終えた頃、歩み寄って来た牧野先生は口を開いた。
この先、何度も聞くことになる言葉。 「素晴らしい」
それから牧野先生と父は大の仲良しとなった。
夜遅く、父の部屋から聞こえてくる笑い声の相手は電話の向こうの牧野先生。
ファックスの紙が無くなるほど送られて来る牧野先生からの漫画。
父は小さな円と、いくら積んでも買えぬ大きな縁を手にした。
京都国際マンガミュージアムを作るにあたり、牧野先生の存在は不可欠だった。 その牧野先生の推薦で、ここ京都国際マンガミュージアム、漫画の博物館。紙芝居も漫画の原点であると、父の手を強く引いてくれた。
僕が弟子入りしたのはそれから数年後。 父を師匠と呼ぶようになり、2年経った頃、紙芝居屋ヤッサンは舞台を夕焼けの向こうに移した。 そして、牧野先生も一昨年の夏、夕焼けの向こうに。
誰に聞かされても、そのまんま鵜呑みに出来ない死後の話。
だけど、僕だって信じたい。いつかの再会を。
牧野圭一先生、父師匠ヤッサンが残した京都国際マンガミュージアム紙芝居常設小屋は開館当初からずっとある。
兄弟子らっきょむの後を追い、僕もここで紙芝居。
そして、師匠ヤッサンの残した弟子達も食らいついて来る。
日本人のみならず、海の向こうの漫画心、子ども心溢れる人達もやって来て、絵で伝わる絵会話。 笑顔伝わる笑会話で向かい合う。
元気ぶつけ、元気ぶつけられる元気浴。
そこでいつも照らし照らされる。
京都国際マンガミュージアムは元龍池小学校。 今では、ここが僕の母校。 そして卒業はなく紙芝居道、学びは永遠と続く。
ここで演じた数千回の紙芝居。
笑顔と拍手いただき、つけた自信も、次の回にはペシャンコにされ、それを繰り返し、僕ら飽きる事なく紙芝居。
毎回本気、いつも真剣。
昔懐かし、今新しい紙芝居。
もっともっと壊し、もっともっと作り、奏でたい。
牧野圭一先生、師匠ヤッサンが残した京都国際マンガミュージアムと紙芝居の物語。
それをこの先も生きていきたい。
18周年。 あと2年で20年。
マンガミュージアムマスコットキャラのマミューと乾杯できる日が楽しみだ。
口演後、いただく笑顔と拍手、未だ僕は慣れることがない。
京都国際マンガミュージアム開館18周年。
マンガミュージアム開館当時から、紙芝居を漫画の原点の1つという事で、紙芝居常設小屋をおかせていただいている。
それを強く推してくれた人、漫画家で漫画文化研究者、京都精華大学名誉教授、牧野圭一先生の後押しがあったからだ。
牧野圭一先生との出会いにより、日本人のみならず、海の向こうから集まる漫画心、子ども心溢れる人達と日々、紙芝居で向き合わせてもらっている。
それはまだ僕が紙芝居屋になる前の少しちょっとだいぶ前の昔話。
京都精華大学の学生さんからの紙芝居の学祭で紙芝居してほしいと紙芝居屋ヤッサンへの口演依頼電話。
口演日、時間、場所。そこまで伝えてから、もじもじしだす女学生。
ヤッサンは言う。
「なんだよ、なにが言いたいんだよ、言ってみろよ。」
もじもじ女学生が答える。
「あのぉ〜、その、お金があまりなくて、、、」
「いくらあるんだよ、言ってみろよ」
女学生が答えた数字は紙芝居屋ヤッサンが口演依頼受けるには0が一つ少ない数字。
「なんだよ!あるじゃねえかよ!
学生がそんなとこで遠慮してんじゃねえよ!」
父はその仕事を受けた。
僕はその話をすぐそばで聞いていた。
しょせん紙芝居。 たかが紙芝居。
その言葉に安く見られてしまう紙芝居。 父の紙芝居は見なきゃわからない。
僕は幼い頃からずっと見てきた。
他の紙芝居は知らないが、違うのだ。 小さな子どもだけじゃない。 高学年も中学生も高校生も大学生も大人もおじいちゃんおばあちゃんをも引き込み巻き込んでしまうんだ。
皆が持つ紙芝居の概念をひっくり返してしまう。 テレビ消して家族の茶の間囲むような、星空の下、大きな炎囲むような、木で出来たテレビの中の小さな絵に皆が肩寄せ合って笑い合うそれが父の紙芝居。
たくさんの笑顔と笑い顔をタクト代わりに拍子木もって奏でる紙芝居。 それが父の紙芝居。
なのに、見てもらえなければ、しょせんたかが紙芝居。
父はお金に無頓着。 またそんな仕事を受けてしまうんだ。 賢くなったつもりの片方の頭ではそう思う。
だけど、もう片方の頭で知っている。 父は“不可思議”の計算式をはじく。 意図せずに。
学祭当日、父の紙芝居はたくさんの学生とそこに来た子ども達、大人達を巻き込んだ。
それはいつも見てきた光景。
僕が誇らしく思う父の姿。
父が作る大きな輪。
紙芝居と聞いて、思い描く光景なんかではない。
笑顔の女学生が紙飛行機ひとつ作れそうな封筒を父に手渡す。
ありったけの笑顔とお礼の言葉を乗せて。
これだけの仕事をしてるのにな。 僕は思う。思ってしまう。
そりゃ、学祭は盛り上がったよ。 けど、我が家の茶の間は今日も白いご飯に夢だけ乗せる夢ご飯。 大好物だけど、たまにはさ。
そのたくさんのお客さんの中、一番後ろで見ていたのが、牧野圭一先生だった。
紙芝居終え、たくさんの人達に水あめ配り終えた頃、歩み寄って来た牧野先生は口を開いた。
この先、何度も聞くことになる言葉。 「素晴らしい」
それから牧野先生と父は大の仲良しとなった。
夜遅く、父の部屋から聞こえてくる笑い声の相手は電話の向こうの牧野先生。
ファックスの紙が無くなるほど送られて来る牧野先生からの漫画。
父は小さな円と、いくら積んでも買えぬ大きな縁を手にした。
京都国際マンガミュージアムを作るにあたり、牧野先生の存在は不可欠だった。 その牧野先生の推薦で、ここ京都国際マンガミュージアム、漫画の博物館。紙芝居も漫画の原点であると、父の手を強く引いてくれた。
僕が弟子入りしたのはそれから数年後。 父を師匠と呼ぶようになり、2年経った頃、紙芝居屋ヤッサンは舞台を夕焼けの向こうに移した。 そして、牧野先生も一昨年の夏、夕焼けの向こうに。
誰に聞かされても、そのまんま鵜呑みに出来ない死後の話。
だけど、僕だって信じたい。いつかの再会を。
牧野圭一先生、父師匠ヤッサンが残した京都国際マンガミュージアム紙芝居常設小屋は開館当初からずっとある。
兄弟子らっきょむの後を追い、僕もここで紙芝居。
そして、師匠ヤッサンの残した弟子達も食らいついて来る。
日本人のみならず、海の向こうの漫画心、子ども心溢れる人達もやって来て、絵で伝わる絵会話。 笑顔伝わる笑会話で向かい合う。
元気ぶつけ、元気ぶつけられる元気浴。
そこでいつも照らし照らされる。
京都国際マンガミュージアムは元龍池小学校。 今では、ここが僕の母校。 そして卒業はなく紙芝居道、学びは永遠と続く。
ここで演じた数千回の紙芝居。
笑顔と拍手いただき、つけた自信も、次の回にはペシャンコにされ、それを繰り返し、僕ら飽きる事なく紙芝居。
毎回本気、いつも真剣。
昔懐かし、今新しい紙芝居。
もっともっと壊し、もっともっと作り、奏でたい。
牧野圭一先生、師匠ヤッサンが残した京都国際マンガミュージアムと紙芝居の物語。
それをこの先も生きていきたい。
18周年。 あと2年で20年。
マンガミュージアムマスコットキャラのマミューと乾杯できる日が楽しみだ。
口演後、いただく笑顔と拍手、未だ僕は慣れることがない。
=だんまる=