《紙芝居》11月 実演者スケジュール

。・:*:・゚★,。・:*:・゚☆紙芝居・11月口演・:*:・゚★,。・:*:・゚☆
1日(土) いちりん
2日(日) らっきょむ
3日(月) らっきょむ
4日(火) はるる
6日(木) だんまる
7日(金) いちりん
8日(土)はるる
9日(日) らっきょむ
10日(月) らっきょむ
11日(火) はるる
13日(木)だんまる
14日(金) いちりん
15日(土)はるる
16日(日) だんまる
17日(月) いちりん
18日(火) はるる
20日(木) らっきょむ
21日(金) だんまる
22日(土) はるる
23日(日) だんまる
24日(月) らっきょむ
25日(火) はるる
27日(木) はるる&いちりん
28日(金) せんべい
29日(土) せんべい
30日(日) せんべい
2日(日) らっきょむ
3日(月) らっきょむ
4日(火) はるる
6日(木) だんまる
7日(金) いちりん
8日(土)はるる
9日(日) らっきょむ
10日(月) らっきょむ
11日(火) はるる
13日(木)だんまる
14日(金) いちりん
15日(土)はるる
16日(日) だんまる
17日(月) いちりん
18日(火) はるる
20日(木) らっきょむ
21日(金) だんまる
22日(土) はるる
23日(日) だんまる
24日(月) らっきょむ
25日(火) はるる
27日(木) はるる&いちりん
28日(金) せんべい
29日(土) せんべい
30日(日) せんべい
コスモス満開の季節。
子どもの頃、父が家族の反対押し切り、田舎に移り住んだ。
日本昔ばなしのような、藁葺きの家、五右衛門風呂でぼっとん便所。
庭には池があって大きな鯉が泳いでる。
街灯もほとんどなく、コンビニもジャスコもない。
都会暮らしだった僕らには、カルチャーショックで。
だけどその時、得れなかった賛成は後からついてくる。
あの時、理解できなかった理不尽が心の中、後からゆっくり溶けてくる。
母が見つけた、田舎での楽しみ。 木々に囲まれた生活の中、秋、季節に咲くコスモスの花。 この時期は台風がやってくる季節でもあって、背の高いコスモスはよく転んだ。 それでも咲くコスモスに母は心打たれた。
“倒れて咲くのもコスモスの花 心の中に咲かせたい”
母は庭中にコスモスを咲かせた。 そのコスモスを全国の人達に送った。
そして帰ってくるお礼状。
一日百通もの手紙が届く。
背の高いコスモスに包まれ、母の姿が見えなくなる。
晩ご飯の支度忘れるほどに夢中になる母。
コスモスの花言葉は“まごころ”と“宇宙”。
コスモスに囲まれ夢中になる母は夢中人。
親が子に思うように、子だって思う、我が親が子どものように夢中になる姿を嬉しく思う。
倒れても咲くコスモスに、いつも母を想う。
ブレーキもなく、ハンドルもあまり効かないエンジンだけで走る紙芝居屋の父、師匠、ヤッサンに連れ添い、支えた母。
先日、その母の告別式が行われた。
家族だけの告別式。
本当は弟子達や、親しくしていた者も参列を望んだが、母の意向を尊重し、姉二人、弟家族、そして真ん中に母を囲んでの告別式。
そう生前葬。
生きてるうちにしか、伝えられない言葉、想い、感謝。
僕らは“生前想”と名づけた。
日が近づくにつれ、生きてるうちの葬式って、なんじゃそれって思えてしまう。
毎日顔合わす僕と母は、いつもつまらないことでぶつかり合う。 目の前、元気に生きているのだ。
だけど身近な人にほど伝えられない、向き合えない。
僕は日々、父、師匠から授かった紙芝居。 これ一本で生きている。
僕が伝えられるの言葉と絵に想いを乗せる紙芝居。
頼まれてもいない紙芝居を、普段見てもらえない家族にぶつけた。
逃がさないぞ、目を逸らすな、誤魔化すな。これが我が家だ。 家族と囲んだ大きなちゃぶ台。 家族以外の人達たくさん招いた小さなちゃぶ台。
山の中、星空の下、時間のない時間の中、囲んだ大きな炎。 それがこの紙芝居に詰め込まれてる。
皆が肩寄せ合う紙芝居。
僕はどうも他の3人と違って、人間界で上手く生きるのが下手くそだ。 お金の稼ぎ方が下手くそだ。
皆が当たり前にできること、“普通”に出来ることが出来なさすぎる。
そこに当てはめられたら、そこで比べられたら、僕は劣等生。 誰にも相手にされないヘンテコ人だ。
だけど紙芝居時間、この時間だけ、向き合える。人と人との輪に混じり、人と人との間を保ち“人間”となれる。
4人兄弟、皆、継いだ親からの血。 おじいちゃんおばあちゃん、そのまたおじいちゃんおばあちゃんそのまた、、
理屈でなく抗えない血。
流行りにも、普通にも、当たり前にも囚われず、突き進みたい道がある。
ちっとも効率的でなく、とっても不器用で、自分だってどうにかならないかと思う人生だけど足が一日一歩、歩幅狭い日もあるけど止めれない。
父や母、先祖のせいにするつもりはないけど、抗えない自分の心に縛られて誤魔化せない逃げ出せない。
心の音に耳澄ますと、聞こえてくる。
今では耳澄まさずとも大音量で響いてくる心の音。
このまま真っ直ぐに。
紙芝居を道しるべに、このまま真っ直ぐ、道なき道、未知なる道、自分道を歩きたい。
子どもの頃、家族の反対押し切った父の想い。
父がその時、意図していたのかどうか知らないけど、街灯の灯りに邪魔されぬ星空の下、流行りに乗れず、流されず、日々囲む炎に照らされ、寄り道しながらも、自分の道が見えてきた。
告別式。生前想。
母も己のまんまに生きた。
僕もそう生きたい。
人の自由侵すことなく、自分のまんまに、ありのまま。我のままに、わがままに、そう生きる人達と照らし照らされる生きたい、生きてほしい。 母に、大切な人達に、紙芝居で向き合う子どもと子ども心にぶつけたい。
さぁ、紙芝居に行くぞ。
僕にもシャキンとする時間がある。 父で師匠で紙芝居屋ヤッサンが残した僕への遺産。 紙芝居。 そして、日々、その紙芝居が毎日できる出来る場所、京都国際マンガミュージアム、常設紙芝居小屋。
ここ最近強く思う。 毎日見てもらえる場所がある幸せ。
日本の人に限らず、海外の人も多く来る。
ありがたいことだ。
紙芝居でもらう笑顔と拍手と浴びる元気に元気浴。
これでこの先も、紙芝居道、自分道を歩いていける。
生きてるうち伝えたい。
生きてうちにしか感じられない体温、もっともっと感じたい。 放ちたい。
子どもの頃、父が家族の反対押し切り、田舎に移り住んだ。
日本昔ばなしのような、藁葺きの家、五右衛門風呂でぼっとん便所。
庭には池があって大きな鯉が泳いでる。
街灯もほとんどなく、コンビニもジャスコもない。
都会暮らしだった僕らには、カルチャーショックで。
だけどその時、得れなかった賛成は後からついてくる。
あの時、理解できなかった理不尽が心の中、後からゆっくり溶けてくる。
母が見つけた、田舎での楽しみ。 木々に囲まれた生活の中、秋、季節に咲くコスモスの花。 この時期は台風がやってくる季節でもあって、背の高いコスモスはよく転んだ。 それでも咲くコスモスに母は心打たれた。
“倒れて咲くのもコスモスの花 心の中に咲かせたい”
母は庭中にコスモスを咲かせた。 そのコスモスを全国の人達に送った。
そして帰ってくるお礼状。
一日百通もの手紙が届く。
背の高いコスモスに包まれ、母の姿が見えなくなる。
晩ご飯の支度忘れるほどに夢中になる母。
コスモスの花言葉は“まごころ”と“宇宙”。
コスモスに囲まれ夢中になる母は夢中人。
親が子に思うように、子だって思う、我が親が子どものように夢中になる姿を嬉しく思う。
倒れても咲くコスモスに、いつも母を想う。
ブレーキもなく、ハンドルもあまり効かないエンジンだけで走る紙芝居屋の父、師匠、ヤッサンに連れ添い、支えた母。
先日、その母の告別式が行われた。
家族だけの告別式。
本当は弟子達や、親しくしていた者も参列を望んだが、母の意向を尊重し、姉二人、弟家族、そして真ん中に母を囲んでの告別式。
そう生前葬。
生きてるうちにしか、伝えられない言葉、想い、感謝。
僕らは“生前想”と名づけた。
日が近づくにつれ、生きてるうちの葬式って、なんじゃそれって思えてしまう。
毎日顔合わす僕と母は、いつもつまらないことでぶつかり合う。 目の前、元気に生きているのだ。
だけど身近な人にほど伝えられない、向き合えない。
僕は日々、父、師匠から授かった紙芝居。 これ一本で生きている。
僕が伝えられるの言葉と絵に想いを乗せる紙芝居。
頼まれてもいない紙芝居を、普段見てもらえない家族にぶつけた。
逃がさないぞ、目を逸らすな、誤魔化すな。これが我が家だ。 家族と囲んだ大きなちゃぶ台。 家族以外の人達たくさん招いた小さなちゃぶ台。
山の中、星空の下、時間のない時間の中、囲んだ大きな炎。 それがこの紙芝居に詰め込まれてる。
皆が肩寄せ合う紙芝居。
僕はどうも他の3人と違って、人間界で上手く生きるのが下手くそだ。 お金の稼ぎ方が下手くそだ。
皆が当たり前にできること、“普通”に出来ることが出来なさすぎる。
そこに当てはめられたら、そこで比べられたら、僕は劣等生。 誰にも相手にされないヘンテコ人だ。
だけど紙芝居時間、この時間だけ、向き合える。人と人との輪に混じり、人と人との間を保ち“人間”となれる。
4人兄弟、皆、継いだ親からの血。 おじいちゃんおばあちゃん、そのまたおじいちゃんおばあちゃんそのまた、、
理屈でなく抗えない血。
流行りにも、普通にも、当たり前にも囚われず、突き進みたい道がある。
ちっとも効率的でなく、とっても不器用で、自分だってどうにかならないかと思う人生だけど足が一日一歩、歩幅狭い日もあるけど止めれない。
父や母、先祖のせいにするつもりはないけど、抗えない自分の心に縛られて誤魔化せない逃げ出せない。
心の音に耳澄ますと、聞こえてくる。
今では耳澄まさずとも大音量で響いてくる心の音。
このまま真っ直ぐに。
紙芝居を道しるべに、このまま真っ直ぐ、道なき道、未知なる道、自分道を歩きたい。
子どもの頃、家族の反対押し切った父の想い。
父がその時、意図していたのかどうか知らないけど、街灯の灯りに邪魔されぬ星空の下、流行りに乗れず、流されず、日々囲む炎に照らされ、寄り道しながらも、自分の道が見えてきた。
告別式。生前想。
母も己のまんまに生きた。
僕もそう生きたい。
人の自由侵すことなく、自分のまんまに、ありのまま。我のままに、わがままに、そう生きる人達と照らし照らされる生きたい、生きてほしい。 母に、大切な人達に、紙芝居で向き合う子どもと子ども心にぶつけたい。
さぁ、紙芝居に行くぞ。
僕にもシャキンとする時間がある。 父で師匠で紙芝居屋ヤッサンが残した僕への遺産。 紙芝居。 そして、日々、その紙芝居が毎日できる出来る場所、京都国際マンガミュージアム、常設紙芝居小屋。
ここ最近強く思う。 毎日見てもらえる場所がある幸せ。
日本の人に限らず、海外の人も多く来る。
ありがたいことだ。
紙芝居でもらう笑顔と拍手と浴びる元気に元気浴。
これでこの先も、紙芝居道、自分道を歩いていける。
生きてるうち伝えたい。
生きてうちにしか感じられない体温、もっともっと感じたい。 放ちたい。
=だんまる=