内容
著名なマンガ評論家であり、また編集者としても情報誌の草分け的存在である『プレイガイドジャーナル』5代目編集長を務めるなど、70年代以降の関西サブカルチャーシーンで活躍してきた村上知彦氏。
その村上氏より御寄贈いただいた“雑多”な同時代資料の集成である京都精華大学・京都国際マンガミュージアム「村上知彦コレクション」には、70年代のブームの中で作られたミニコミ誌の数々や、映画の自主製作・自主上映運動の盛り上がりを伝えるチラシやパンフレット、そして新感覚の創作マンガやマンガ評論の発表の場となった同人誌など、当時の若者たちの熱気を伝える 「ぼくらのメディア」が数多く含まれています。
本コーナーでは、そんな「村上コレクション」の中から、マンガをはじめとしたサブカルチャー史の息吹が感じられる貴重な資料をピックアップして御紹介します。
展示内容
雑誌・単行本資料、ミニコミ誌・まんが同人誌資料、村上知彦氏直筆原稿など約120点。
◆村上知彦氏について&村上知彦氏著作コーナー
村上知彦氏の足跡を、①ミニコミ誌『週刊月光仮面』をはじめとするミニコミ発行活動、②自主製作映画「暗くなるまで待てない!」(大森一樹監督、1974年)をはじめとする関西の映画自主製作・自主上映運動、③1981年から84年にかけて編集長も務めた、情報誌『プレイガイドジャーナル』との関わり、④まんがに関する評論活動という4つの側面に関わる資料とともに紹介します。
また、まんが評論をはじめとする村上知彦氏の著作を手に取って御覧いただける著作コーナーを併設しています。
◆ミニコミの時代と「ぼくら」の情報発信
1970年代末、学生運動の熱気冷めやらぬまま若者文化が大きなうねりを見せていた時代に、自分自身のミニ・メディア=「ミニコミ」を作り、やり取りしあう若者たちのつながりが広がっていきます。そこには「GYA」こと、まだハイティーンの少年だった村上知彦氏の姿もありました。
村上氏が当時発行していたミニコミ『週刊月光仮面』をはじめ、70年代の若者たちの手による様々なミニ・メディアや、その広がりを伝える当時の雑誌などを紹介します。
◆「喫茶店のおしゃべり」のように――同人誌と「ぼくら」のまんが評論
自分自身のメディアを手にした若者たちが、そこで自分たちのための表現である〈まんが〉について語り始めるのは自然な流れでした。等身大の「ぼくら」 による、〈まんが〉についての絶え間ないおしゃべりの場は、やがて「コミックマーケット」に集う人々のような巨大なコミュニティへと成長していくことになります。
ここでは〈まんが〉について語り合う場が同人誌掲載の評論から、『プレイガイドジャーナル』や『ぱふ』といった各種情報誌の記事や、評論単行本などへ広がっていくさまが窺える資料を紹介します。
◆「ぼくらの時代」のまんが――ニューウェーブ/ニューコミックの作家たち
1970年代末から80年代前半にかけて、それまでの〈まんが〉の枠にとらわれない個性的な書き手が、続々と同人誌の世界から飛び出して活躍し始めます。大友克洋、高橋留美子、さべあのま、高野文子、いしいひさいち、高橋葉介など、「ぼくら」の時代が生み出した〈ニューウェーブ〉の作家たちです。
ここでは村上氏も深く関わったまんが雑誌『漫金超』をはじめ、同人誌メディアと商業出版メディアとが重なり合う場で展開されていった、そうした新しい描き手たちの足跡を集めました。
村上知彦(むらかみ・ともひこ)
1951年、兵庫県芦屋市生まれ。関西学院大学社会学部卒。大学在学中の1970年にガリ版刷りのミニコミ『週刊月光仮面』を発行。同誌は当時のミニコミブームを報じるマスメディア上でも度々とりあげられた。
73年、高校時代からの友人の大森一樹らと神戸の自主上映グループ・無国籍に参加。大学卒業後、スポニチ大阪本社に勤めながら、74年に16ミリ映画『暗くなるまで待てない!』を大森監督らと自主製作。自主映画ブームを代表する作品として注目される。
またミニコミ・同人誌などに映画・まんが評論を執筆し、79年の評論集『黄昏通信同時代まんがのために』(ブロンズ社刊)は、まんが世代によるまんが批評のさきがけとなる。
79年スポニチを退職、80年にいしいひさいちらと (株)チャンネルゼロを設立し、雑誌『漫金超』を創刊。81~84年には情報誌『プレイガイドジャーナル』に出向し編集長を務める。
以後、評論活動のほかまんが単行本・エッセイ集の編集にも携わり、手塚治虫文化賞選考委員、文化庁メディア芸術祭審査委員、日本マンガ学会理事などを歴任。2015年3月まで、神戸松蔭女子学院大学文学部総合文芸学科教授を務めた。
※新型コロナウィルス感染拡大による臨時休館等含め、スケジュール・内容については変更の可能性があります。予めご了承ください。